なぜ、ここはこんなにも静かなのだろう。なぜ、心臓の音だけが厭に耳につくの だろう。頭に浮かぶ疑問はそのどれもが形にならずに流れて消えた。僕の視界 にはただひたすらに真っ赤な世界と、眩しいほどに真っ白な君の姿が映っている 。君はどんな顔をしていても可愛いね。なんて、普段じゃ口が裂けても言えない ような言葉が自然と溢れて、ぐらり。僕の世界が揺れた。
「…バカ」
は言った。と言っても、僕の胸に顔を埋めながら言うから最後のほうはもご もごとよく聞き取れない。ただ、僕を見上げたの顔に血がついているのが見 えて、悲しかった。粉雪のように白い肌を汚してしまうなんて、僕は酷い人間だ 。それだけじゃない、の輝く瞳から大粒の雫を溢させるなんて、僕はなんと 残酷な男だろう。
「…どうして私を庇ったの」
腕の中のは、消えてしまいそうだった。声は微かに震えていて、僕の背中に 回された腕は強ばっている。背広をきつく握りしめた指はまるで油の抜けたロボ ットのようなのに、は必死にそれを動かして僕の背中に開いた穴に触れた。 痛いのかどうかよくわからい感覚のそこは、の熱だけをはっきりと僕に伝え る。そうしてまたどくりと流れ落ちた雫でを赤に染めた。
「…知らないよ」
どうして君を庇ったかなんて。知らないよ、どうして僕が君に寄りかからなきゃ 立っていられないかなんて。知らないよ、どうして僕の体からこんなにも沢山の 血が流れているかなんて。知らない知らない知らない。
「…知らない」
駄々をこねる子供のように、僕の頭の中を知らないばかりがぐるぐると回る。△ △が顔を歪めるたびに一層深く廻りだす頭を、いっそのこと割ってしまおうかと さえ思うのに、僕の体はほんの少ししか動かない。の体をきつく抱きしめる ことすらできない。まるで傷口からコンクリートを流し込まれて、ガチガチに固 まっていくようだった。
「恭弥、」
まだ使える耳がの声を聞き取って脳に伝えた。さっきまでぐるぐると廻って いた頭はいつの間にか治まって、しっかりと意識を保っている。肺が悲鳴をあげ ていたけれど、お構いなしに声を出そうとしたら、ひゅうひゅうと変な音がした だけで言葉にならなかった。
「恭弥」
それに気づいているのかどうかはわからないけど、はまた少し震えた、だけ どとても心地よい声で僕の名を呼んだ。だめだ、なんだかとても眠くなってきた よ。痛みも苦しみも、どこか遠くの方にあるような気がする。の背中よりも もっとずっと先、もやもやと霞んでいてよくわからないけれど、それが酷く緩慢 な動きで僕から遠ざかってゆく度に痛みを感じなくなって、眠くなってゆくのだ 。
「   」
の声が良く聞き取れない。きっとまた僕の名を呼んでいるのに。それがとて も悲しいのになんだか酷くが温かくて、またその心地よさに瞼が重くなった 。このまま眠ってしまったらもうに会えない気もするし、そうじゃない気も する。ただ穏やかに過ぎてゆく時が、泥濘のように僕の足を絡め取ってゆくのを 感じながら、僕は静かにに全てを委ねた。
涙でぐちゃぐちゃになったの顔が極端に狭くなった視界に一瞬映って、僕の 世界はゆっくりと暗くなってゆく。もう少しを見ていたいのにと思うのに、 瞼が異常に重くて動かなかった。だめだ、やっぱり眠い。でも大丈夫だよ。目が 覚めたら一番にに会いに行くから。だから、少しだけ寝かせて。が消え る寸前に、できるだけ大きく笑って見せた。

「…おやすみ、愛してるよ」




それはただ、何ものよりもゆっくりと
(僕に悦びを君に絶望を与えた)